歳相応に生きることの必要に感じるも楽したいものよ
歳相応という言葉がある。
その年齢に応じた振る舞いだったり、その年齢に応じた仕事振りだったりと、歳をとるにつれ求められる態度や能力に対し、相応の対処が出来ること。
大体こんな意味で使われる言葉だと思う。
学校にいるうちは、周りがほぼ同い年で固められているため、あまり意識することはなかったが、仕事を始めてからこの歳相応という言葉を度々意識するようになった。
私は今年で24になる歳だが、24相応にちゃんと生きているのだろうか。
自身を省みるとあまり自信がない。
大人になりたいと思ってなったわけでもなく、24になりたいと夢見てなったわけでもない。
でもそんなのは誰だって同じである。
ある程度歳をとれば、歳をとることに嫌気がさし、若作りをしたり、急に夢を追おうとしたりする者も出てくる。
だが、仕事柄30になってもわがままを言い、協調性がない人や10代なのに落ち着いて物事に対処している人の様を見ると、歳相応くらいには自らを高めないといけないなと感じる。
社会は大人が作っているというと、捻くれた少年少女が反論してくるかもしれないが、社会は間違いなく大人が作っている。
政治に間接的に関わるには18、直接的に関わるには25歳以上の年齢でなければならず、義務教育の避止義務によって15歳を越えるまでは働くこともできない。
それは大人が社会に対し、ある程度の責務を果たし、その責務は歳相応以上のものを求められるの普通で、その普通を満たす者が少なければ社会が成り立たなくなる。
社会と自身を結びつけるのは話が無駄に壮大になるが、自身の環境と自身の関係性を考えるとやはり、歳相応に生きることは必要だと感じる。
歳相応に生きるためには苦労をしなければならず、理不尽なことにも耐えてなら超えなければならない。
分かってはいるけれども、どうしても楽な方に流れたいと考えてしまうのが常。
どうすれば楽をしながらも歳相応に生きることは出来ないのだろうか。
そんなことを考えてる時点で歳相応の生き方から離れていくのは分かっているのだが、度重なる理不尽に耐えながら歳相応を求められる過酷さに私は今日もため息をつく。