【小説】ベンチといつかのあの日
小学生の時から社会人になる手前の今でも僕はベンチに座っている。
背もたれのないベンチ。
背もたれのない公園のベンチ。
背もたれのない公園の端っこにぽつんと立つ小さい木の陰にあるベンチ。
毎週水曜日の17時から19時までの間、僕はそのベンチに腰をかける。
強いこだわりがあるわけではない。
そこに座らなければならない特別な理由があるわけでも、誰かとの約束があるわけでもない。
だから雨の日や用事がある日はベンチに座らないし、暇な時は他の曜日に座ることもある。
ただそのベンチに座ることがなんとなく心地良く感じるから毎週ベンチに腰をかけ、たまたま時間に余裕があるのが水曜日だから水曜日に座りにいく。
春になったら桜が咲くように、朝になったら太陽がでるように、僕は水曜日の17時になったらそのベンチに腰をかける。
10歳になった辺りから22歳になる今までベンチに座ってるわけだから、かれこれ12年間、毎週その時間にベンチに座っていることになる。
我ながらよく飽きないなと思うけど、飽きる飽きないでもないなとも思う。
ベンチに座ってる際、僕はいつも決まった行動をしているわけではない。その時の気分で何をするのかは変わる。
一冊の本をじっくり読む。
何冊もの漫画をぺらぺらっと読む。
年季の入った芸人のラジオを聴く。
大学の小難しい課題の調べ物をする。
音楽プレイヤーに新しく入れた流行りの音楽を聴く。
スマホでちょっと古い映画を見る。
何もせずぼーっとしている。
あげようと思えば他にもたくさんのことをしてきた。
何しろ12年間だ。
単純に毎週座っていると仮定すれば、52週かける12年で624回座っていることになる。まあ正確な回数でいえば多分500ちょっとくらいなんだろうけども。
どこかの局の昼の番組かなんかでタレントに「毎週のようにベンチに座っていて面白いなと思うことは何ですか。」と訊かれれば、僕は「誰かと話している時ですね。」と答えるだろう。
長年座っていると近所ではそれなりに有名になるし、声もかけられる。
それが同級生の時もあるし、小さな子どもの時もあるし、よぼよぼのお爺さんの時もくたびれたサラリーマンの時もある。でも基本どんな人でも面白く感じるのが不思議だ。
みんな思い思いのことを話したり、思い思いのことを訊いてきたりする。
人によって話す話題も違うし、話し方も違う
う。同じ人でもその時の感情によって全然雰囲気が違ったりもして、同じ動画を繰り返し再生するのとは違い、いつも新鮮な心持ちで時が過ぎていく。
そんなところが面白い。
そんなこんなでいつものようにベンチに座る。
今日は9月24日。
夏の暑さもひと段落し、長袖の人がちらほら見えるようになった。寒い冬が来るまでにはまだ時間の余裕がある。
この時期の公園は過ごしやすく、沢山の子どもたちが遊んでいる。独自の遊びでわいわいと楽しんでいる彼らを観ているとなんともなごましい。
僕は今年22になる。彼らからすればそろそろおじさんにみえる歳だ。あと5年もすれば、こうしてベンチに座って子どもをみていると彼らの親御さんに不審者だと思われるかもしれない。
それでも僕は休日出勤がなく水曜日休みの、地元の不動産仲介の事業所に就職するので今後もこのベンチに座る毎日を送るだろう。周囲にどう思われるかは分からないけど、こんな日々が続けばいいなと思う。
「ねぇ、覚えてる?私のこと。」
僕がぼーっと子どもたちを眺めていると後ろから透き通った声がきこえた。振り返ると制服を着た高校生らしき女の子が立っている。身長は女の子にしては少し高め。脚が長くてシュッとした細身。一つにまとめたポニーテール。長いまつげにぱっちりとした瞳。少し厚みのある唇。そんな見た目の女の子。
「ごめん。覚えてない。」
正直に応えると、彼女は寂しそうに笑った。
「だよね。そうだと思った。」
「以前ここで話した人?」
「話した…っていうのかな…。話したというより、遊んでもらったって感じなんだけど…。」
少し過去のことを思い返してみるが、はっきりと目の前の女の子と遊んだ記憶がない。
「ごめん。やっぱり覚えてないや。」
「うん。私が小学生の時だから覚えてないよね。」
「そうだね。悪いけど…。」
会話が途切れる。
気まずさはない。僕がいつも誰かと話す時や、遊ぶ時は基本的に一期一会。女の子からすればぼくは毎週ベンチに座っている唯一の人でも、僕からすれば彼女はベンチに座ってる時に話しかけてくる数ある人のうちの一人で、唯一のとは形容できない人だ。だから彼女が誰か分からないのはしょうがないことだと思う。
「隣に座っていい?」
「いいよ。」
後ろに立っていた女の子はちょこんと僕の隣に座った。女の子はちらちらと僕の顔を覗く。
僕はぼーっと子どもたちを眺める。
「相変わらずだね。あなたは。周りに流されないというか、自分を持っているというか。」
「そうだね。他の人からすればそうみえるかもしれない。」
女の子は顔を下に向け、脚をぴんと伸ばし、ぷらぷらとさせた。そしてきゅっと内股になり、すぐにしゅっと垂直に足を直した。
「強いよね。本当。羨ましい。」
「強くはないよ。鈍感なだけで。」
「自分を持ってる人って強いと思う。他人に振り回されない価値観を持っているって本当、強いなって。」
「他人に振り回されない価値観を持ってるんじゃないよ。他人に合わせようとしないだけで。」
女の子は今度はじっと僕を見つめた。女の子を傍目に僕は相変わらずぼーっと子どもたちを眺める。
「私だってそうしたいけど、うまくいかない。いつも怖いんだ。他人が。だから…。」
一度間をおいて彼女は続ける。
「だからあなたに会いに来た。あなたなら私の、この弱いところを変える答えを知っている気がして。」
彼女がそう言い終わると、少し冷たい風が吹いた。
夏も終わり。
少し名残惜しく感じる。
まだしばらくぼーっとしていたいな。
僕はそう思っていたから決死の思いで口にしたであろう彼女の言葉に応えずにいた。
彼女は僕の次の言葉をじっと待つけれど、僕は依然ぼーっとしながら過ごす。
しばらく僕も彼女も口を開かず、静かに時は流れていった。
子どもたちの方では話し合いが始まっていた。何か新しい遊びを思いついたのか、お調子者っぽい子が他の子に一生懸命に何かを説明している。が、お調子者の提案する遊びを他の子たちはいまいち理解できていないように見える。
僕がそうしてぼーっとしていると、最初こそそわそわしていた彼女も僕に倣ってぼーっと子どもたちを眺めるようになった。
お調子者の隣にいた子が「それより、缶蹴りしようよ!」と言い出すと、「いいね!缶蹴り!やろうやろう!」と他の子どもたちは賛同し、わいわいと遊びはじめた。お調子者は少し不貞腐れた顔をしていたが、すぐに機嫌を直し、「僕もやる!僕も!」と彼らの輪に加わっていった。
子どもたちのやりとりもひと段落といったところか。
「答えをさ。」
「えっ。」
僕が口を開くと、女の子はびくっとし、こちらをみた。
「答えを出そうとしなくてもいいんじゃないかな。」
「……。でも…。」
女の子が俯く。
日が落ちてきて、辺りが少し暗くなる。そろそろ子どもたちも帰る時間。
「でも、私今のままじゃ嫌なの!」
少し大きな声で彼女は言った。
子どもたちがこちらに目を向ける。
女の子は恥ずかしそうに下を向いた。子どもたちはすぐにこちらへの関心を失い、遊びに戻った。
それを確認すると、女の子は再び口を開いた。
「…いつも他人を怒らせてる気がするの。いつも呆れられてる気がするの。いつも嫌いだと思われてる気がするの。考えすぎと言われればそれで終わりだけど、でも、それじゃあ不安が収まらないの。」
女の子は今にも泣きそうな顔をし、今度は消え入りそうな声で言った。
「そう思うかもしれないけど、他人との関係にも、自分のあり方にも答えなんてないと思うよ。答えがあったら面白くないもの。」
「でも…。」
僕の言葉は女の子には届いていない。何を言っても駄目な気がする。あのお調子者が新しい遊びの提案を分かってもらえなかったように、僕の言葉も女の子に届かないような、そんな気がした。
「じゃあどうすればいいの?」
「どうするもなにも…。」
「……。」
女の子はじっと僕を見つめている。近い距離でじっと見つめられると、なんだが動揺する。自分の言葉に責任を持ちたくない。だから僕はじっと見つめる女の子になるべく重く受け止められないよう、言葉を軽く声に乗せようとした。
「君は……。」
びゅーっ。びゅーっ。
先ほどよりも強い風が吹いた。軽く乗せようとした言葉は吹き飛んでいった。僕は口を紡ぎ、女の子の方に顔を向けた。女の子の髪がなびく。なびいた髪を目にした僕は不意に思い出した。
この子…もしかして…。
10年前のことだった。10年前のちょうど今頃。その時僕は近所の人から頭のおかしい子どもだと言われていた。
理由は単純。いつもベンチに座っているから。それは僕にとっては当たり前のことだったけど、周囲にとっては当たり前ではなく、その価値観の相違が当時の僕にとって結構辛いことだった。ちょうど現在の女の子のように。
そんな時、当時小学生くらいの女の子が僕に「遊ぼう。ベンチのお兄ちゃん。」と声をかけてきた。
当時の僕は先に述べたように、結構辛い思いをしていたから、女の子に確かこう言った。
「僕みたいな人と一緒にいない方がいいよ。あそこの子たちと遊んできなよ。」
でも女の子は
「やだ。お兄ちゃんと遊ぶっ!」
と頑なに断った。
(参ったな…。)
僕は困惑した。誰かにまた変な人だと思われる。周囲の視線が気になった。この子の親に見つかったらなんて言われるだろう。悪気があるわけでもないのに、強い罪悪感があった。そんな僕を見て女の子は太陽を指差し、「見て、夕日っ!」と叫んだ。
よく分からなかったけど、僕は女の子の指差した太陽を方を向いた。
「見て、雲っ!」と女の子が続けて叫ぶと僕も続けて雲の方を向いた。
同じように女の子は「見て、ちょうちょ!」とか「見て、空き缶っ!」とか「見て、すべり台っ!」と次々に指差し、つられて僕も女の子の指差した方を向いた。
女の子の指差す方を見ていたら、左手に温かい感触がした。見てみると女の子は僕の手を握っていた。「えへへっ、ベンチのお兄ちゃん!」と女の子はにこっと笑った。その時強い風が吹いて、女の子の髪がなびいた。女の子が何を意図したのかよく分からなかったけど、僕はそれで大分救われた気がした。あの笑顔を、どうして今まで忘れていたのだろう。
目の前の女の子が当時のあの子だったんだと気づいた僕はすべり台を指差す。
「見て、すべり台。」
女の子は何があったのか分からない様子で「えっ?」と困惑した表情を浮かべたが、少しするとすべり台の方に顔を向けた。続けて僕は「見て、空き缶。」「見て、トンボ。」「見て、うろこ雲。」と次々と指を差していった。僕の言葉に反応して女の子は忙しなく顔を向ける。「見て、夕日。」僕がそう言って、女の子が夕日の方に顔を向けた瞬間、僕は女の子の手をそっと握った。女の子は驚いた顔をし、僕の方を向いた。少し顔が紅くみえるのは夕焼けのせいか、突然手を握ったからか。どちらでもいい。少し息を吸い込み、今度はしっかりと言葉を声に乗せる。
「君は君のままでいいと思うよ。僕はそう思う。」
何ら脈絡のない僕の一言に女の子は納得のいったような、いっていないような顔をしていた。
僕は女の子の手を離し、再びぼーっと子どもたちを見て過ごす。女の子も僕に倣って、子どもたちをぼーっと見る。
お調子者が「そろそろ帰ろうぜ。」と他の子に話しかける。
今度はみんな「そうだね、そろそろ。」とお調子者と一緒に帰ろうとする。
子どもたちがいなくなると公園は途端に静かになった。心なしか辺りもぐんと暗くなった気がする。
「私、何に悩んでるのか分からなくなってきた。」
女の子はぶっきらぼうにそう言った。
「そっか」
「ねぇ、あなたは悩みとかないの?」
「どうだろうね。」
「あっても、深刻に悩んだりはしないんでしょうね。」
「そうかもしれないね。」
「そっか、そうだよね。」
女の子は今度は納得のいった様子でうんうんと頷いた。
「何の解決にもならなかったけど、でも会えて良かった。また来てもいい?」
彼女は少し元気なった様子でそう言った。
「うん。」
「いなくなったり、しないよね?」
「毎週この時間にいるよ。来ない理由がないからね。」
「うん。分かった。それじゃあまた今度。」
「うん。」
女の子は僕に微笑んだ後、足早に公園を去っていった。
彼女の後ろ姿を見送る。
やっぱり人と話すのは面白いな。
少し肌寒くなった公園。
公園の時計は18時14分を指していた。
後40分くらい座って帰ろう。
今日も僕はベンチに座り、水曜日の夜を迎える。