暇そうな主婦たちの会話から自身の今後の人生を思う
平日休みの仕事についていて平日に喫茶店に行ったりすると、暇そうな人々が沢山いる。
中には試験前の学生や、就活中の学生、大事な会議の前なのだろうか資料を作るサラリーマンなども散見するが、7割以上は暇な人々。
そしてそのほとんどは暇な主婦だ。
暇な主婦たちの会話に少し耳を傾けると、なんともまあ退屈そうな内容だ。(失礼)
何か大きなことがあったわけでもなく、オチがあるわけでもない話を繰り返し、微妙な盛り上がりを見せる。
当人たちは満足そうなのだが、実際その人たちの会話に同席したらどんな反応をすれば良いのか分からなくなる、そんな会話を永遠と繰り広げている。
多分今の自分が仕事で多少なりとも起伏のある日々を過ごし、独身だからお金を使って誰かとそれなりに思うところのある休日を過ごしてるため、この主婦たちの平凡な話を退屈に感じるのだろう。
今まで暇なことを強く羨望してきたし、今後も羨望し続ける気はするのだが、暇の中生きていると、多分この喫茶店の主婦たちのような会話を自分もするようになっていく気がしてならない。
ちょっとしたことに幸せを感じたり、面白さを感じたりすることは大変結構なことだけれども、そのちょっと幸せや面白さは同じくちょっとした幸せや面白さを感じる人との間でしか共有出来ない。
もし今現在ニートやヒモになったら恐らくこの主婦たちのように小さな幸せを感じやすい性質になるが、同じく今現在ニートやヒモの人としか盛り上がれなくなってしまうではないだろうか。
自分の周りはもちろんニートやフリーター、学生もいるが大半は社会人であり、日々を苦しみながらも楽しんでいる人たちで構成されている。
楽をしたいし、好きな仕事で稼ぎたいけれど、暇な日々を生きていれば彼らにとって自分の話は自分が喫茶で主婦たちの会話を聞いた時に抱いた感情と同じ感情を抱かせてしまう話になってしまわないだろうか。
もしそうなったら今までの自分が曲がりなりに築いた関係性は悪い意味で変化してしまいはしないだろうか。
今現在の状態でいきなり仕事をやめたり、フリーター紛いの生活をするわけではないけれど、仮にそうなった場合、どんな風に生きていくかの指針を考えた方がいい気がしてきた。
有無も言わさぬ完全なる暇ではなく、日々を積極的に生き、充実した中で自分の満足する程度の暇を手に入れる、これが今後の人生における変革の中で必要なことなのではないか。
喫茶店で読書に勤しみながら、主婦の退屈そうな会話(失礼)に今後の生き方を思う休日の昼下がり。